服部天神宮は、当宮で菅原道真公が足の病からご回復され、太宰府まで無事到着されたことにちなんで「足の神社」として知られています。「足の神様」のご神徳をいただかれて、みなさまが健脚健康で生活できるようお祈り申し上げます。

渡来人の集団「秦氏」が允恭天皇の御世(412年 - 453年)に織部司に任じられ、当地を服部連の本拠とした際、外来神の少彦名命(医薬・病気平癒・健康の神様)を小さな祠にお祀りしたことが服部天神宮の始まりです。

延喜元年(901年)菅原道真が京都から太宰府へ左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の足の病に襲われ一歩も動けなくなりました。

「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」

このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。 菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公のお墓であることをお知りになった菅公は「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」と、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されるとともに、魚名公のお神霊もねんごろにとむらわれました。

すると、不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公のご加護によって足の病が癒え、健脚健康を取り戻した菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました。

菅原道真公が太宰府においてなくなられた後、当社も菅公のお神霊(みたま)を合祀し、「足の神社 服部天神宮」として社殿を造営しました。足の神様のご神徳を聞いた全国よりの参詣人と、また当地が能勢街道の要所であったこととで、次第に門前市をなすようになり、殊に江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は非常な賑わいをみせたのでした。

長い歴史において、足の神様のご崇敬は絶え間なく続き、足の病にお悩みのみなさま、「サッカー」「マラソン」「野球」などスポーツに励むみなさまが、大阪、関西、全国各地より「足の神社 服部天神宮」へ訪れています。