境内のご案内

ご本殿

文政10年(1827年)崇敬者の浄財寄進によって造営されたご社殿です。内陣は仏教的な色彩が多いことが特徴となっております。ご本殿には、少彦名命と菅原道真公をお祀りしております。少彦名命(医薬の神様)を小さな祠にお祀りしたことが服部天神宮の始まりです。延喜元年(901年)菅原道真が京都から太宰府へ左遷され任地へ赴く途中、当地で持病の足の病に襲われ一歩も動けなくなりました。

菅公は村人の勧めで、少彦名命を祀る天神祠に足病平癒を祈願されるとともに、藤原魚名公のお神霊もねんごろにとむらわれました。不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公のご加護によって足の病が癒え、健脚健康を取り戻した菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました。

菅原道真公が太宰府においてなくなられた後、当社も菅公のお神霊(みたま)を合祀し、足の神様 服部天神宮としてご本殿を造営しました。

豊中えびす社

昭和25年(1950年)宮司が祭典を奉仕していた阪急宝塚線花屋敷駅(現在の雲雀丘花屋敷駅)の繁昌稲荷社(サントリーの創始者 鳥井氏の邸宅内)の建て替えを機にご神殿を譲り受けました。

当宮は「足の神様」として崇敬され、お足はお金を意味することから、「足の神様=お金の神様」に繋がるとして、西宮神社より商売繁盛の神様として崇敬されるえびすさまのお神霊を勧請しお祀りしました。

昭和26年(1951年)正月、第1回服部えびす祭を斎行いたしました。時を経て平成15年(2003年)に豊中えびすと改称し、35万人の参詣者をおむかえする商売繁盛を祈願するお祭り「大阪のえべっさん」と称されております。また、福をお授けする福娘発祥のお祭りと言われており、大変伝統のあるお祭りになります。

初酉稲荷社

初酉稲荷神社は、人間の生活に欠かすことの出来ない「衣食住」の守護神である宇迦之御魂神をお祀りしております。昭和52年、菅公御神退1075年祭を記念し、ご社殿の造営が行われ、更に伏見稲荷大社より十二支稲荷のお神霊を勧請しました。

中央のお社に酉をお祀りし、その他の十一支は、回りのお社にお祀りしています。自分の干支と裏干支をお参りする干支参りをすることで、運が開かれます。

裏干支とは、自分の干支の正反対の場所に位置する干支で、 裏干支をお参りすることで、お互いに足りないものを補い、幸運がやってくると言われております。

草履堂

足の病が治癒されたお礼のあかしとして、たくさんのぞうりが奉納されてきました。江戸時代から奉納されてきた鉄製やわらの草履が今も保存され、足の神様への祈りや願いが連綿と受け継がれています。令和4年には、平安時代の修験者の履物であった一本歯下駄もご奉納されております。

祖霊社

祖霊社は明治30年大阪博物館に建てられた能舞台が昭和2年大阪天満宮に移築されました。更に昭和52年服部住吉神社に移築された際に、同舞台の鏡の間を当宮に移築して、祖霊社としたものであります。中央に藤原魚名公の墓を右に祖霊社を、左に招魂社をお祀りしております。

藤原魚名公の墓

川辺左大臣藤原魚名公は藤原鎌足の曽孫にして幾多の要職を歴任しましたが、延暦元年(783年)太宰府に左遷される途次、この地で病に臥して、身を動かすことができず、「よろしく京都に帰養すべし」と恩勅がありましたが、遂にこの地にてお亡くなりになり、ご神霊がお祀りされました。

それより約100年後の延喜元年(901年)菅原道真公も太宰府に左遷される途次、足の病に悩まされましたが、村人の案内によって医薬の神様「少彦名命」を祀る天神祠に足病平癒を祈願されました。

そして境内近く路傍の片隅にある五輪塔をご覧になって、これはまさしく魚名公のお墓であることを知られ、「昨日は人の身、今日は吾が身にふりかかるさだめか」と嘆かれ、懇ろに祈りを捧げられました。菅公は天神祠と魚名公のお神霊のご加護によって足の病が快復し、無事太宰府に旅立たれたと伝えられています。

魚名公の子孫の正統は四条家で、四条流包丁道を伝え、この四条家の祖たる魚名公は、日本料理、割烹料理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬を集めています。尚往年の宝塚の名スター春日野八千代様は魚名公の子孫に当たります。

足踏み石祈願台座

履物を脱ぎ、足の神様が祀られるご本殿に向かい「二礼二拍手一礼」の作法にて拝礼してください。その後、祈願台座にお座りいただき、心を整えてお願い事をお祈りください。